山王祭とは

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山王祭の歴史

日枝神社の四季(前編)

日枝神社の四季(後編)

山王祭の起源

江戸城の鎮守であった日枝神社は徳川将軍家の産土神として崇敬されました。
慶長9年(1604)三代将軍家光公が城内にて誕生なされてより、「我誕生所之霊神」として篤い信仰を寄せました。
6月15日の大祭である山王祭はその規模は東都随一と称され、京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本三大祭の一と称され、その祭礼に係わる費用を幕府より支出したことから「御用祭」ともいわれました。

三代将軍家光公の朱印状
▲三代将軍家光公の朱印状
「我誕生所之霊神」が記されている。

山王祭は「上覧祭」

山王祭といえば「神幸祭」です。その神幸祭が初めて見えるのは、二代将軍秀忠公の元和2年(1616)からといわれています。また寛永12年(1635)家光公が城の楼上にて神幸行列を御覧になり、これが「徳川実紀」における将軍上覧の初見です。以後、将軍の上覧は江戸時代を通じて恒例となり、神輿の城内渡御は106回を数えました。

東都日枝大神祭禮練込之図
▲東都日枝大神祭禮練込之図

山王祭の神幸行列

山王祭の神幸行列は「神輿行列」と「山車行列」で構成されています。山車行列は氏子の町々(百六十余町)が単独或いは類で参加し、山車の数45台と決められたが、附祭である踊屋台、練り物に趣向が凝らされ、華美に亘るとしてしばしば禁制をもって取締りがありました。
しかし、明治維新後、府内の主要な道路に電気が通り、高さ4メートルの電線が巡らされるようになると、山車、錦旗は通行が難しくなり、やがて神輿に取って代わっていきました。

江戸風俗十二月之内 六月 山王祭
▲江戸風俗十二月之内 六月 山王祭

神幸祭の中断と再開

昭和12年、支那事変(日中戦争)の激化により、祭礼の中断がやむを得なくなり、敗戦を経て.昭和27年6月より神幸祭は再開されました。東都第一の祭礼といわれた伝統の神幸祭に復するべく内容を整えて現在に至ります。

現在の神幸祭
▲現在の神幸祭
今も江戸城(現在の皇居)に祭礼行列は巡行する

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